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米の歴史

ピンキー

白米だ玄米だ言う前に、米の長い歴史について調べてみました。米の歴史は、そのまま日本人の歴史になると言われてるほど、米は私たち日本人とは切っても切れないものなのです。

稲のルーツ

稲の原産地は、ブラマプトラ川やメコン川、揚子江の上流域、つまりインドの北端と中国の南部あたりの水辺の地域が有力だとされています。最初は水辺に生えていた野生のものを集めてきて食べていたようです。ただしいろいろな説があり、はっきりとしたことはわかっていません。

稲を自分たちで栽培するようになった、つまり稲作の起源は約7000?1万年前だといわれています。生えていた野生の稲を集めて、籾(もみ)の一部がこぼれたり、もしくはわざとまいて、またそれを採集するようになりました。揚子江下流の遺跡から発見された稲の栽培種が、現在発見されている中で最も古く、それは7000年前のものです。

稲作は東南アジアや中国南部で始まりましたが、生産性がすばらしく、計画的に栽培できる稲は、世界中にどんどん広まっていきました。

西は、今のイラン、アラビア半島を経由して、現在のスペインに伝わり、ヨーロッパに広まり、スペインの台頭とともにアメリカ大陸にも渡りました。

東は、スマトラやジャワ島、そして中国全土に伝わり、日本に伝来しました。

日本へ伝来

日本への伝来のルートにも諸説があります。最も有力なのが、中国北部から朝鮮半島を経由して、北九州に初めて伝わったという説。稲作に限らず、古代の日本における大陸文化の伝来は、基本的にこのルートが多いです。

中国の南部から奄美諸島や沖縄を経由して九州に伝わったとされる説もあります。他にも中国の南方民族が直接北九州に移住して伝えたとする説など、いろいろな説があります。

米の歴史=日本人の歴史と書いたとおり、米は大昔から作られていて、その起源は弥生時代だとされています。紀元前300年頃です。

しかし最近の研究で、弥生時代よりも前、縄文時代の末期に稲作が始まっていたことがわかりました。岡山県の遺跡から紀元前1000年の土器のかけらが見つかり、そこに稲の籾のあとがついていたんです。さらに青森県の遺跡からは今から3000年前の稲も発見されています。

この発見によって、獣を狩ったり、木の実を採取していた時代が縄文時代、稲作が始まったのが弥生時代という時代の区切りがくつがえされ、縄文時代後期から稲作が始まったとする人や、その時期を弥生時代に含めると解釈する人など、研究者の中で意見が分かれています。

全国に広まる

縄文時代の末期、今から3000年前に北九州に伝わった稲作は、すさまじいスピードで日本全国に広まっていきました。日本の高温多湿な気候と、外国文化への受容力が高い民族性が稲作を広めていったといえます。

広まっていったルートとして次の2つがあります。まず、瀬戸内海経由で近畿に入り、そこから東海、関東に伝わり、さらに湖周辺の積土づたいに北上して東北にも伝わった中央ルート。

もうひとつは、北九州から日本海沿いに山陰→北陸を経由して東北へ伝わった日本海ルート。

北九州から近畿までの500kmの距離を、50?100年ほどの短期間で伝わり、青森へ到達するのに200年かからなかったとされています。このスピードは驚異的です。

日本人にとっての米

稲作が発達するにつれて、食生活が安定し、食糧を蓄えておくことが可能になったので、米をたくさん所有する者が次第に権力を握るようになっていきました。

大和朝廷が全国を統一し、邪馬台国として日本で初めて政府を作った頃、稲作は全国に広まっていました。米=富とされ、以降明治時代の初期まで、米は税としての役割を担ってきました。江戸時代には、藩の大きさを石高で表し、給料も米で支払われていました。

各時代の権力者たちは、水田を含む領地をめぐって合戦を繰り返し、また稲作を発展させるための政策を行ってきました。政治、経済、庶民の生活の広い範囲で、米は重要視されていたのです。

それでは、日本人が米を食べるようになってから、現在に至るまでの歴史を見ていきましょう。

弥生時代

米が食べられ始めたこの時代、米は玄米のまま火であぶったり、土器を使って蒸したりして食べていました。籾がついたままあぶったあと籾をとって食べる「焼米」という食べ方もありました。米以外にも麦、アワ、ヒエ、大豆、小豆などが食べられていました。

大和時代

この時代になると、国家政策として稲作の発展を目指し、用水路や堤防が作られたり、農具や水田が開発され、稲作の技術はどんどん進歩していきます。

食べ方は弥生時代と同じように玄米のまま食べられていましたが、米は貴族や豪族に納めなくてはならず、一般庶民は米以外の穀物を中心に食べていました。

奈良時代

日本が中央集権国家として確立した時代、米は貴族の主食となり、農民は収穫した稲の約3%を税として納めなければなりませんでした。一般庶民はまだまだ雑穀が主食でした。

食べ方としては、玄米を甑(こしき)で蒸した強飯(こわめし)、水をたっぷり加えて炊く粥(かゆ)、ごはんを干した「ほしい」などが主流でした。

平安時代

権力者がより米を重視するようになり、農民を大切に扱い、生産力が一気に増しました。しかし後期になると兵乱が続き、その生産力は徐々に減少していきます。

貴族の間では徐々に精米が行われるようになり、白米に近いものになっていきました。庶民はまだ玄米のままでした。

貴族たちの食べ方は強飯や粥が主流でしたが、次第に固粥(かたかゆ)もしくは姫飯(ひめいい)と呼ばれる食べ方が好まれるようになってきます。これは粥よりも水分を少なめにした固めの粥のことで、今私たちが食べているのがこの姫飯にあたります。

鎌倉時代

貴族にかわって武士が主導権を握った時代。関東や東北の各地で大規模な開発が行われ、1年に2度作物を収穫する二毛作も始まりました。

武士は質素な生活を重んじるので、玄米を強飯にして食べ、一部の貴族は姫飯(白米)、庶民は玄米や麦、貧民や農民は雑穀を食べていました。末期になると武士の間でも白米が普及するようになります。

室町時代?安土桃山時代

武士による農業の技術向上が引き続き行われ、同じ面積での収穫量が奈良時代の2倍にまでなりました。武士の間でも姫飯が広まっていきました。

豊臣秀吉が全国統一を果たすと、汁かけ飯など中国や南蛮の影響が調理法にも及びました。この頃になると庶民の中にも米を食べる人が増えてきました。

江戸時代

徳川幕府もまた、米を重要な財源として扱い、大量生産できる土地を直轄地にしました。幕府に限らず、諸大名にとっても、米を増やすことがすなわち財政を豊かにすることであり、年貢米の取立てを年々厳しくしていきます。

よって農業政策にも力が注がれ、田畑を拡大し、品種を改良していきました。特に八代将軍、徳川吉宗の時代、享保の改革によって米が量産されるようになりました。天保年間には国内の水田の面積が、奈良時代の3倍にまで膨れ上がりました。

食べ方としては、江戸時代初期は戦国時代の名残もあり、初代将軍の徳川家康の「食は飢えを止めるのみ(食べるのは飢えをしのぐ程度でよい)」という考えから、質素倹約が重んじられていたので、武士の食事は黒米という玄米の一種が常用されていました。給料として受け取った米に麦を混ぜて食べていたようです。

農民はというと、「百姓は常に雑穀を食すべし、みだりに米を食むことを得ず」といったように、米を作っているのに年貢や地代として取り上げられ、雑穀に草木を混ぜた雑炊を食べていました。

江戸中期になると生活も安定し、武士の間で白米が食べられるようになり、農民も徐々に米を食べるようになりました。特に享保の改革によって大量生産が可能になると、多くの人が白米を食べられるようになったのです。

明治時代

外国からの技術を取り入れ、農業改革が進み、米の生産量は著しくアップしました。また人口が増加し、国民の生活レベルがあがったことにより、米の消費量も飛躍的に伸びました。やむをえぬ場合のみの代用食として麦を使う以外は、日本人の主食は白米になりました。

これらの流れを受けて、現在私たちは白米を食べているわけですが、ダイエット食として玄米が食べられるなんてことは、昔の人は想像もしなかったでしょうね。

こうして米と日本人の歴史を見ていくと、普段食卓でごはんを食べるとき、何か感謝のような気持ちで食べることができるかもしれません。

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